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その時歴史が動いた 憲法施行60年 特集 憲法九条 平和への闘争 〜1950年代 改憲・護憲論〜 [映像-歴史]

(2007日)10年前の憲法記念日に通常40分の放送を1時間に拡大した回。

昭和22年5月3日施行

から、

昭和35年(1960)9月7日

に、池田勇人新首相の発言「憲法改正は考えておりません」


までの13年間の、戦後史をおさらいする。


9条2項がバランサーとなって機能しているので、
1960年の安保改定を消極的に認めつつ、
自衛隊員の発言を使って、特に改正する必要はないとする番組。


憲法・第9条 : 1950年代 改憲・護憲論・平和への... 投稿者 byzantine-basileus-z
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英雄たちの選択 徳川繁栄のカギは第二次上田合戦にあり!?凡庸の将軍・秀忠の真相 [映像-歴史]

(2016日)
「関ヶ原」に秀忠が遅参した。が、父に言い訳はしなかった。
むろん、事の子細は確か榊原康政が家康に熱く弁護していた。

確かに時系列で確認すると、秀忠に過失はなかった。
「すぐに西上せよ」という家康の手紙を受け取ったのが、
大幅に遅れての9月9日だった。

この時点で、誰も15日に関ヶ原で戦になるとか、1日で終わるとか
予測し得なかった。

14日に大垣城にいた石田三成勢が関ヶ原に向かい陣を築いた。
そこで家康は秀忠を待つこともできたが、待たなかった。

にもかかわらず、家康は秀忠の関ヶ原遅参を怒ってみせた。

この件で秀忠は「凡庸」というレッテルを張られることとなったが、
第2代征夷大将軍に家康は秀忠を選んだ。
1632年の死去だが、41の大名を改易させた。
私は秀忠は恐怖政治で平和の礎を築いたと思い込んでいたが、そうでもなかった。



eたち 徳川繁栄のカギは第二次上田合戦 20160908 投稿者 okura1919ppp
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その時歴史が動いた 源頼朝 魔法の大逆転 〜富士川の戦い〜 [映像-歴史]

(2007日)1159年の14歳にて、平治の乱で平清盛に捕まる。
翌年、伊豆に流される。

1180年に後白河法皇の皇子である以仁王が散らばっている源氏に檄文を送った。
頼朝は静観したが、平家が源氏を征伐すると聞き、選択は一択となった。

8月、40騎で決起する。が、敗れ安房に逃れる。
が、そこから短期間で『吾妻鏡』によれば20万に膨れ上がり、
富士川の戦いとなる。

かたや、平家では、清盛の孫維盛が総大将となって駿河まで来た。
が、圧倒的な兵力差と共に、士気に違いがあり、頼朝の圧勝となる。

が、頼朝は、このまま京都を目指さず、鎌倉に引き返し、
武家による支配を東国で行った。

この回は、富士川の戦い(1180)をクライマックスに頼朝の生い立ちから解説する。



源頼朝 : 魔法の大逆転 / 富士川の戦い / その時歴... 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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その時歴史が動いた 織田信長・勝利の方程式 〜真説・長篠合戦〜 [映像-歴史]

(2000日)天正3年(1575)5月21日、武田15千は織田徳川38千に突撃した。

中学生の時に、勝頼が馬防柵に突っ込み、3段構え3千の信長鉄砲隊でヤラレタ、
と確か覚えた。

「以後、よーさん増えた鉄砲伝来」から32年も経って、
これでは勝頼はマヌケ過ぎる、少し変だな、とは思っていた。


が、現実は異なり、まず、梅雨時期であること、
武田側も鉄砲を持っており、信長はこの戦いを鉄砲の力で勝とうとは思っていなかった。

長篠城を守る奥平定能の息子に娘を嫁がせた家康だったが、
長篠城の守りは通常の外堀と内堀に更に中堀の3重とし、
500の兵で武田15千に耐え忍んだ。
援軍が来ることを知らせるために鳥居強右衛門は死を選んだ。

信長3万と家康8千だったが、陣城を作った。
雨で視界が閉ざされている中、1日で作る。

大軍勢を前に信長は誘い込む必要があり、酒井3千に奇襲させ両脇を挟む形となる。
そこで、勝頼は突撃することとなった。


裏切り者の奥平を成敗することと、代替わりがあって、
勝利で家臣団をまとめたいと焦っていた。
雨を待つなり、撤退の進言も、採用できなかった。残念ですね。

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http://tactical-media.net/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AE%E6%95%97%E5%9B%A0/



長篠合戦・実際は 攻城戦だった・その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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その時歴史が動いた 豊臣秀吉天下統一の必勝戦略 〜小田原攻めに秘策あり〜 [映像-歴史]

(2002日)天正18年(1590年)7月5日、小田原城が降った。
大名の氏直は早期に降伏を考えていたので高野山追放。
氏直の父氏政は断固反対だったので切腹。氏照も切腹した。

こうして籠城戦にて天下統一を成した日は、
戦国時代から近世に移行した日だった。(堺屋説)

この筋書きは秀吉の絵からはじまった。
それを解説する番組。

話自体はドラマでもよくある、

・大名の妻や淀を呼び寄せ、茶会
・一夜城

と、兵糧補給に力点を置いて解説する。

22万人の兵だったが、20万石の兵糧は10か月となる。
そのようなことは、北条勢は考えられない。
1561年に上杉謙信が10万で攻めてきた際も1か月も経ず退却させた。

誤算ではあったが、太閤検地で正確な兵糧計算を可能とし、
大阪湾から船で小田原まで運ぶことを、
予測できなかった北条の甘さ、とするのは酷でしょうね。


豊臣秀吉 / 天下統一への 必勝戦略 / その時歴史が... 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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その時歴史が動いた 信長 執念の天下統一 〜大坂本願寺との十年戦争〜 [映像-歴史]

(2002日)秀吉が大阪城を築く前は、本願寺の拠点だった。
1568年に信長が浅井長政と共に上洛し、足利義昭が15代将軍となる。
義昭から副将軍や他の地位も示されたが拒否した信長の目的は
「天下布武」だった。

まず、大阪本願寺に矢銭5千貫と退去を要求した。
むろん受けるはずがなく、血みどろの戦となる。
このころは、義昭と信長の関係は部分的な対立関係はあっても
共同歩調をとっていた。

1570年に、上洛を拒否した朝倉を潰すつもりだったが、
浅井長政が裏切り、「金ケ崎の戦い」から脱走した信長は、
浅井・朝倉と「姉川の戦い」に突入した。

この頃の「信長包囲網」は浅井朝倉の他、三好三人衆、延暦寺、
荒木、六角、筒井など名を連ねる中に、もちろん本願寺も加わった。

が、1571年には将軍義昭が「御内書」で反信長を呼び掛けた。
甲斐の武田信玄、雑賀・伊賀・甲賀の忍者も加わった。

が、1573年に信玄の死により、浅井朝倉の滅亡。
1574年に義昭は京都を追放される。

大阪本願寺は頑張っていた。食料不足で困った際は、
義昭経由で毛利輝元に援助を申し出て、村上水軍が1576年に成功した。
この時の海上輸送を妨害するのに失敗したのは村上水軍の兵器だったが、
これに対して、信長は改善を行い、1578年の輸送に対して九鬼水軍は鉄甲船を準備し、本願寺の輸送路は断たれることとなる。

この状況にて1580年に信長は「勅命講和」を使って本願寺を退去させた。
が、息子の教如が抵抗。放火までしたようだ。
この流れが後の東本願寺となり、数々の「武勇伝」で存在理由が問われることとなったようだ。


信長・石山本願寺との10年戦争・その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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その時歴史が動いた 古代中国・項羽と劉邦 後編「勝利への60万人の大合唱 四面楚歌」 [映像-歴史]

(2003日)

「四面楚歌」
「背水の陣」
「左遷」

も、この時代を由来としていた。

左遷が、項羽が天下を取り、領地を好き勝手に配分したが、
劉邦が漢中で、単に地図上で左にあったことからだった。

2人の対決の終局の四面楚歌、
劉邦は異なる国や民族で合わせた60万の軍勢に
楚歌を歌わせた。

彼の人心掌握術の賜物だが、
誰かの発案に一笑に付すことなく実行した。
過去にも事例があったのならば司馬遷が残したでしょうから、
恐らく「四面楚歌」が初なのでしょう。

この時代も、奢れる者は滅ぶということを、
劉邦は身に染みて理解し再起したのでしょう。

項羽と劉邦 / 後編 / 四面楚歌 / その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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その時歴史が動いた 戦国の剣豪、太平を築く 〜柳生宗矩・「活人剣(かつにんけん)」の真実〜 [映像-歴史]

(2007日)父宗厳の代1585年に太閤検地で隠田がバレて所領を没収された。
1594年に家康に200石で宗矩は仕えた。

剣で仕えたはずが、裏仕事を要求される。
元々忍者の出自で伊賀とも関係していた。それを家康は買った。
忍の仕事は当時では表だって誇れるものではなかったようだ。

が、1600年の「関ヶ原」の勝利で秀吉に没収された2000石を戻された。
1601年に秀忠の兵法指南役。
1615年の「夏の陣」で秀忠の陣に攻めてきた豊臣勢7名を宗矩が斬った。

又、家光の兵法指南役にもなり、粗暴な家光に人格的に影響を与え、
それまでの恐怖政治の秀忠時代の武家諸法度が、1637年に改正され軟化する。
そして、全国の大名を監察する大目付となり、睨みをきかした。

剣豪でありながら、人を殺めたのは「夏の陣」の7人だけで、
「活人剣」を提唱し幕府の安定に苦悩し寄与した生涯だった。
改めて、家康は幅広く人を用るのだと寒心しましたね。


柳生 宗矩・戦国の剣豪 太平を築く / その時歴史が... 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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その時歴史が動いた 古代中国・項羽と劉邦 前編「天下を分けた運命の宴 鴻門の会」 [映像-歴史]

(2003日)前半は、鴻門の会まで。いくつかのエピソードの紹介程度ではある。

圧政を行った秦の始皇帝が死に、各地で反乱となる。
楚王の「秦の咸陽へ行く者を王とする」という言葉に名乗りを挙げたのが、
項羽と劉邦だった。

項羽はほぼ直線距離を進み、敵は滅ぼした。
裏切りかねない秦の捕虜20万を生き埋めにもした。

劉邦は、方向を定めず進み、項羽よりも倍近い進軍距離だった。
が、劉邦が先に咸陽についた。

項羽がキレかける。項羽40万 x 劉邦10万なので、
劉邦は臣従の手紙を出し、「鴻門の会」と呼ばれる宴会となる。

劉邦と軍師張良の2人だけで敵陣にいかざるを得なかった。
そこで、屈辱的な対応を受けたが、その内容が今回のメイン。

私は20万を生き埋めにした項羽が義人とされ現在も慕われているというのが
理解しかねますね。


項羽と劉邦 / 前編 / 鴻門の会 / その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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その時歴史が動いた 天神・菅原道真 政治改革にたおれる [映像-歴史]

(2002日)菅原道真といえば、「白紙に戻った遣唐使」だった。
当時の東大学長を務めていた。

その彼が、宇多天皇の右腕となり、政治改革を断行していく。

が、宇多天皇が譲位して息子が醍醐天皇となる。
13歳の息子に「全て道真に任せろ」と言っていたようだが、
藤原時平の謀略で九州大宰府に単身左遷させられた。

失意の内に左遷後2年で他界する。

番組では完全に道真善、時平悪の構図で作成していたが、
時平も21で父を亡くし、父に抑えられていた宇多天皇の親政に
劣勢に立たされた。が、己の才覚で逆襲を成し遂げた。

が、陰湿な手段で魂を赤く染めてしまうと、
栄華も長く続かないのでしょう。
最終的に39で死に、時平の系列は絶えてしまった。


菅原道真・政治改革の挫折・その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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