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その時歴史が動いた 源義経、大水軍を奪いとれ! 〜壇の浦の戦い、奇跡の逆転劇〜 [映像]

(2003日)平治の乱の1159年、義経は誕生した。14の兄頼朝は伊豆の北条に預けられた。
京都の鞍馬寺で11で預けらた義経は、元服して1174年に奥州の藤原秀衡に頼った。

1180年に頼朝が挙兵し、兄の下へ駆けつけた。
1183年に木曽義仲が入京。
1184年、義経が、入京する。

後白河法皇が、義経を検非違使に任じ、頼朝と離間させる。

その後、平家討伐の先鋒の大功労者となる。

嵐の中、5艘で屋島に向かい、奇襲に成功。
その後、壇之浦では500艘となっており、平家に従っていた水軍を吸収していった。
血統に加え、危険を承知で先頭で戦う軍事カリスマだった。

が、古代から中世へ繋ぐ悲劇の人となった。

弁慶すら登場しない短くまとめた一代記でした。


源義経・壇の浦の戦い・奇跡の逆転劇・その時歴史... 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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その時歴史が動いた 戦国 出世の方程式 藤堂高虎 大坂夏の陣の大勝負 [映像]

(2005日)近江で生まれた高虎は、1970年の「姉川の戦い」で、15の初陣だった。
かつて藤堂家は地元のいくつかの村の領主だったが、農民だった。

そこからだった。転職を重ねた。

身長が180程の巨体で、はじめは武功で名をあげた。
戦の功を監視する「目付」がいて、高虎は浅井長政に刀と感状を貰った。

阿閉貞征、磯野員昌と仕え、信長の甥の織田信澄にも仕え活躍するが、
しばらくすると辞めた。

が、1576年に秀吉の弟秀長に300石で召しかかえられた。
当時の秀長は8500石だったこともあり300石は喜んだでしょう。

そして、武功を重ねるが、それに限界があることを悟り、猛勉強をした。
そして、「築城」の特技を得、秀長の家老にまでなった。

が、1591年に秀長が死去し、養子の秀保(秀吉の姉の子)に仕える。

が、1592年に秀吉に男児が生まれるや、逆風で身の危険を察知、高野山に出家。

他の同僚が秀吉に睨まれる中、高虎は2万石から伊予宇和島7万石へと
加増され秀吉の家臣となった。

が、1600年の「関ヶ原」では家康につき、会津征伐に従軍。
大谷吉継との死闘や、諸将の寝返り工作と働き、20万石に加増。

1615年の「夏の陣」で長曾我部盛親に先陣で突っ込み、多くの死傷者を出す。
その戦いは、ハイリスク・ハイリターンの「賭け」でもあった。
その功により、伊賀と伊勢で27万石となる。


これだけの経歴を持ち、家康の死去の枕元に侍ることを許され、秀忠にも仕えた。

口先の世渡り上手ではできない領域のことを彼はやっていた。
私は、信長・秀吉・家康に感情移入できませんでしたが、
この人には脱帽と感動を禁じ得ませんでした。


藤堂高虎 : 戦国 出世の方程式 / その時歴史が動いた 投稿者 byzantine-basileus-z
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その時歴史が動いた 戦国の「ゲルニカ」 〜大坂夏の陣、惨劇はなぜ起きたのか〜 [映像]

(2008日)家康が「国家安康」で激怒したという有名な事件だが、
これは、諱(本名)を使われた家康が怒るのも失礼であり理由はあったが、
1614年で70を超えた家康の豊臣を滅ぼす口実が欲しかったタイミング
だったのでしょう。

豊臣家臣片桐且元に、秀頼の参勤交代・淀を江戸に・転封の3条件を出した。
それで大阪で内部が割れ、家康との内通を疑われた片桐は家康につくことなり
茨木城へ向かったが、豊臣急進派の攻撃を受ける。
これが家康の宣戦布告となったようだ。

大阪城内に貯蔵していた金にて、兵3万から10万へと膨らますことができ、
外堀があったので、徳川20万に対峙する準備はできた。

が、土地に詳しい者が家康勢を導いた。
これで、北部から大阪城への砲撃を成功させた。

これにより、淀は休戦を決意、家康の外堀を埋める要求を受諾。
翌年の夏の陣で、大阪の町は悲惨の地獄絵図となった。

その様子を黒田長政が絵師に描かせた屏風が残っている。


大坂 夏の陣・戦国 日本のゲルニカ / その時歴史が... 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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英雄たちの選択 秀吉VS.家康スペシャル 第2集「秀吉の逆襲」 [映像]

(2016日)「小牧・長久手の戦い」続編。1584年11月、織田信雄が秀吉と講和した。
秀吉が奪った領地を一部返してあげての講和で、信雄は受諾した。
家康勢主力は小牧山城から動かず、助けてくれないので、
信雄としては秀吉の申し出を断る理由はなかったのでしょう。

これで、家康は秀吉と戦う理由がなくなり、次男を人質として休戦する。

これにより、四国の長曾我部、紀州の雑賀衆根来衆たち、は一気に滅ぼされることになった。

秀吉としては、積極的に家康を滅ぼす気はなく、家康を上洛させて臣従させればよかったが、
家康も簡単に降るわけにはいかなかった。

秀吉の妹を家康に嫁がせることでも上洛しなかった。
秀吉は10万を超える兵を養う兵糧を大垣に準備していた。
家康も防御に余念が無かった。

そういう時に、巨大地震が起こり、秀吉勢は大打撃だったが、家康の被害はわずかだった。

ここで、秀吉は母を家康に送った。家康は飲むしかなかった。


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英雄たちの選択 秀吉VS.家康スペシャル 第1集「小牧・長久手の戦い」‬‬ [映像]

(2016日)1582年6月「本能寺」の後、秀吉は明智光秀、柴田勝家を討ち、
破竹の勢いだった。

22カ国を領有した頃、不満を持つ信長の次男信雄を家康が担いだ。
当時の家康は、5カ国。圧倒的な力の差があったが、小牧で戦うこととなる。

秀吉10万に対し家康1.4万。
が、秀吉の軍勢は寄せ集め、家康の軍勢は旧武田軍も含め精鋭だった。

家康は、真っ先に小牧山城を拠点とし周囲に砦や土塁を築いた。
これがマストだった。
これで、膠着状態となった。

この戦いは、単なるいちローカル戦ではなかった。
家康の天下を決めた戦いは、「関ヶ原」というのは素人で、
実は「小牧・長久手」だった。

後の時代、昭和天皇も軍の演習の地に選んだ程だった。


旧織田だった池田恒興や森長可が秀吉に寝返り、三河へ攻めた。
が、その情報をキャッチしていた家康が小牧山城を抜け、2人を討ち取った。

局地戦で、確かに表向き秀吉が負け、家康は勝った。
が、秀吉にとっては煩い男だったので、実は秀吉が流したのかもしれないそうだ。

今回は前編だったが、これ単品でも勉強になりました。


秀吉VS家康 「小牧・長久手の戦い」 投稿者 atstudent123
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ザ・プロファイラー ~夢と野望の人生~ “時代”と闘い続けた作詞家~阿久悠~ [映像]

(2017日)懐かしい曲ばかりでした。
私は作詞・作曲が誰なのかに無関心だったので、
「宇宙戦艦ヤマト」ですら知りませんでした。

レコード大賞(wikiより)

1971年「また逢う日まで」尾崎紀世彦
1976年「北の宿から」都はるみ
1977年「勝手にしやがれ」沢田研二
1978年「UFO」ピンク・レディー
1980年「雨の慕情」八代亜紀

古いですが、全て歌ったことありました。

作詞家は依頼を受けて、特定歌手のために詞を考え、作曲家に渡す場合、
三者の作品となって世にでるそうだ。

私は曲を聴く方で詞にあまり関心はなかったが、
彼によって厳選された言葉の力を今なら一つ一つ感じることができます。


今だによく口ずさむのが「デビルマン」でした。
(これもwikiで今日知り、驚きました)

ここまで彼の作品とは知らずに、力を与えられ生きていました。
「ありがとう」
と伝えたいですね。


プロファィラー・阿久悠の生涯 投稿者 daisuki-kempou
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昭和偉人伝 佐藤栄作 / BS朝日 [映像]

(2015日)BS朝日。約45分で簡単に紹介する。各論の詳細には踏み込まない。

1901年に山口県で生まれ、高校は池田勇人と同じ熊本の五高となる。
東大法の後に松岡洋祐のツテで鉄道省に入る。
44年に大阪鉄道局長に左遷されてたおかげで、戦後の公職追放組とはならず、
運輸事務次官となり、48年に吉田内閣の官房長官となった。

64年の総裁選挙で池田に敗れるが、11月の病気退陣後、総理となった。

彼は沖縄返還を成したが、密約がいくつかあった。
1つは米軍用地の原状回復費の日本側負担。と、有事の核持ち込み。

が、「非核三原則」などが評価されたノーベル平和賞だった。
一方、密約文書を作成した若泉敬は自殺している。


S偉人伝 佐藤栄作20150513 投稿者 okura1919ppp
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その時歴史が動いた 改革者か、悪徳老中か? 〜田沼意次、江戸の経済改革に挑む〜 [映像]

(2003日)田沼意次の一代記。1719年に誕生し9代将軍となる家重の小姓となる。
側用人・老中で実権を奮った1767~1786の時期を田沼時代と言うようだ。

9代将軍家重、10代の家治に信頼されるが、8代吉宗の孫松平定信一派の反感を買う。

年貢に依存していた幕府財政に商人資本も組み込み、景気と財政を好転させた。
また、輸入が主だった長崎を特産品で輸出の拠点とし利益を得ようとする。

様々に積極的な改革を実行するが、飢饉に乗じて定信一派が反転攻勢を仕掛けた。

1786年、家治の病を「田沼が毒を盛った」とあり得ない噂を流すなど、
手段を選ばない攻勢に、田沼は失脚することとなった。


田沼意次・改革者か 悪徳老中か ?・その時歴史が... 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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英雄たちの選択 ‪‪女王・卑弥呼 “辺境”のサバイバル外交‬‬ [映像]

(2014日)卑弥呼は30余りの国を統率する調整型リーダーだった。
6世紀に鉄生産の技術を得るが、この時代は輸入に頼っていた。

輸入先が朝鮮半島北部楽浪郡の公孫家だった。
220年に漢朝が滅び三国時代となる。公孫氏は魏呉両国と外交関係を結んでいた。
諸葛亮がいる蜀が存在することで魏は半島征伐ができなかった。

その関係を卑弥呼は理解しており、公孫氏と友好関係を築いていたようだ。

ところが、234年に諸葛亮が他界。魏に睨まれることとなった。
238年に魏軍は楽浪郡を落とし、公孫氏を処刑する。

この同じ年に卑弥呼は、魏に外交団を楽浪郡に派遣、洛陽に案内され、
「親魏倭王」の称号を与えられた。

公孫氏は呉から「王」、魏からは「公」だった。
が、卑弥呼にとっては「王」と権威が与えられ鉄の安定供給が欲しかった。
公孫氏滅亡の後に魏と呉のどちらに朝貢するかが問題となった。

一説には滅亡前の戦争中に魏と接触した可能性もあるという。

いずれにせよ、同年の238年の速やかな決断の背景に、
国際関係を正確に分析していたことが現れており、
私は卑弥呼を単に凄腕シャーマンだと理解していましたが、面白かったですね。



eたち 卑弥呼 2014サバイバル外交0410 投稿者 okura1919ppp
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その時歴史が動いた 天才信長をつくった男 〜今川義元 真説・桶狭間の戦い〜 [映像]

(2007日)お歯黒姿でコケにされる義元を再評価する。

北の甲斐武田信玄、東の駿河北条氏康と渡り合っていた義元が無能であるはずがなかった。
義元は軍の強化のため、寄親寄子制を創設し、武将を親、農民を子とし、
親子関係を固定させ、子が他の親の下で活躍しようが認めないとした。
それにより組織が強固となり、西の織田に脅威となった。
又、鉄砲をいち早く導入したのも義元だった。

1552年に父信秀が他界し、信長は家督を19で継ぐ。
1560年、義元は2.5万で西進する。
尾張の清州城以外の城は次々と義元に寝返り、信長の兵は3千のみだった。
さらに、精鋭に絞った2千の兵で「桶狭間」へ向かい、信長は義元の首をとった。

この時に義元が手にしていたのが重要文化財の「宗三左文字」という刀だった。
南北朝時代に作られ、武田信虎・今川義元・信長・秀吉・家康と所有されたそうだ。
信長は「本能寺」で死ぬまで持ち続けた。
私は刀に興味は無かったが、これは欲しいと数分、思いました。


桶狭間の戦い ・今川義元の視点・その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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