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その時歴史が動いた シリーズ秀吉の猛将 後編「豊臣家存続の秘策 〜加藤清正 二条城会見〜」 [映像-歴史]

(2008日)秀吉の小姓で、1573年に浅井長政が討たれた後の近江長浜城主だった秀吉に11の頃に仕える。

1582年、「本能寺」の後の、明智光秀との「山崎の戦い」、柴田勝家との「賤ケ岳の戦い」に参加、特に後者での活躍で、「賤ケ岳7本槍」の1人とされた。

1587年の九州平定で佐々成政が肥後を治めることとなったが、
無理に検知を行い、35000もの一揆が起こる。
その鎮圧軍に参加し、清正は志願し北肥後19万5千石を治めることとなった。

現地への着任前日に手紙を届け、統治方針を示した。
彼の正義感が伝わったのだろう。善政を敷くことができた。

後、1600年の「関ヶ原」で東軍につき、西軍に付いた小西行長の南肥後も
治めることとなり、52万石の大大名となる。


が、彼の心配事は、豊臣秀頼のことだった。

1611年、家康は兵10万と共に京都に移動。秀頼を招いた。
秀頼の母、淀は反対だったが、清正が付いて秀頼は京都に向かう。
が、ここでの家康と秀頼の会見を無事に終え、帰宅する途中、清正は倒れることとなった。

番組では触れなかったが、毒殺説もあるようだ。
罪なき人間を殺める手段を、家康は取り得たか。
1615年の「夏の陣」の結果から考えれば、この智将を殺すことが正解だったかもしれない。
が許される性質のものではもちろんないですね。

彼は秀頼を案じ熊本城を特別仕様とするなど、人生を秀吉に捧げた。
実に立派な忠義の武将でした。


加藤清正・二条城会見・その時歴史が動いた  投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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