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英雄たちの選択 “県”誕生!奇跡の無血革命~大久保利通・廃藩置県の舞台裏~ [映像]

(2017日)明治4年、廃藩置県により中央集権国家としてスタートする。
大久保の果たした役割を追う。

前段階として明治2年の版籍奉還があった。
土地と戸籍を天皇所有にするということだった。

藩主を知藩事に天皇が任命するという形をとり、
世襲でなくなり、藩士の帰属意識を朝廷へ変換させた。
また、旧藩主の取り分を藩収入の10分の1とし華族にするというとで
納得させた。

大久保はもう少しソフトに考えていたが、
意外にも以前は反対だった西郷が強気の廃藩置県を主張し、
岩倉具視も知らない間の謀議により6日間で実行に移した。

むろん、薩長土の「御親兵」という実力組織を背景に、7月14日に実行。
在東京の知藩事を皇居に集めて一方的に命令した。
が、知藩事の負債や旧藩士への家禄支給などから解放され、
むしろ望んでいた藩もあった。

又、武家華族とされていた旧藩主だったが、統一するなど
細かい調整を図り、無血革命と言っていい改革を大久保は成功させた。

okubo.jpg
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2017079900SC000/
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BS歴史館  日本の転換点 京都炎上! 応仁の乱 ~その時 ”日本人” が生まれた~ [映像]

(2013日)私は「費用無駄な応仁の乱」だった。当時はそれだけでした。

1時間の番組で、なるほど勉強になったと満足したものの、
応仁の乱のホンの概要であって、wikiの方がはるかに詳細だった。

6代の義教は強権政治から赤松に暗殺されたこともあり、
8代将軍義政は政治への関心より酒や文化に傾倒し早く隠居したかった。

子がいなかったため、弟の義視を無理に還俗させまでしたが、
1年後に義尚が誕生。当然、日野富子は自分の息子を将軍職に就かせるため、
山名宗全に接近し様々な工作をしたようだ。

その両者の対立と諸勢力の対立が重層し東西に分裂し戦った。
将軍義政は文化に走り、日野富子は財テクに走った。

そして富子は貯めた金で、西軍の兵を引き上げさせ和解交渉を成功させた。

この乱をきっかけに京都の公家が全国に散り、カルチャー教室を開いて公家文化を全国化させたり、
あるいは、これまでの体制では考えられない、寺社を権力と捉え破壊の対象とする日本人が登場するなど、
日本史の重大なポイントとなる乱のようだ。

深みにハマったら楽しいのかもしれませんが、この辺にしときます。


BSR 応仁の乱20140708日本転換点 投稿者 okura1919ppp
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その時歴史が動いた 徳川家康 三方原の大ばくち 〜敗れて学ぶ 覇者の哲学〜 [映像]

(2002日)家康大敗の戦だった。その時の己を生涯忘れぬよう
自らの肖像画を描かせてもいた程の痛恨の敗戦だった。

家康は、1543年に生まれ、8歳から今川の人質となった。
が、1560年に「桶狭間」で今川義元が信長に討たれた。
その機に、今川が放棄した岡崎城を拠点とし独立し、信長と同盟関係となる。
そこから、今川領を狙い、三河・遠江を有することとなる。

一方、信長は、北近江の浅井長政と同盟、将軍義昭を奉じて上洛。
が、1570年の越前朝倉攻めにて、長政が反旗。
その後、義昭とも揉め、義昭は信長討伐令を各地に送る。

受け取った武田信玄も決起し、「三方ヶ原」で戦うこととなった。
武田2.5万に対し、家康8千、織田の援軍は3千だけだった。

油断もあり、この局地戦は大敗となったが、家康は、この恥を己に刻みつけ、覇者となる。
信玄を師と仰ぎ、旧武田家臣を優遇。彼らは水戸徳川家を支えることとなった。


徳川家康 / 三方ヶ原の大ギャンブル / その時歴史... 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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英雄たちの選択 敗北!白村江の戦い なぜ巨大帝国に挑んだのか? [映像]

(2017日)645年より中大兄皇子が実権を握り、豪族が割拠する分権型社会から中央集権型社会へ改革を実行しようとした。

当時の国際情勢で、唐は半島の新羅と良好な関係であり、
隣接していた高句麗と南西部の百済とは緊張関係にあった。

倭国としては、鉄の国内生産は始められていたが、
金などの威信財や文化・技術の輸入先確保のため、いずれかの国とは良好な関係が不可欠だった。

が、その百済が占領され、残った者たちが百済復興の救援依頼を申し込んできた。

歴史的には、皇子は承諾し兵を集め、派遣したが、2日で負けてしまった。
が、負けること計算して将兵を殺すためだったという説も発言された。

中大兄皇子の権力欲で外敵の脅威が誇張され、騙されたという説もあるようだ。

冷徹に全方位外交を展開してた訳ではなく、混乱して場当たり的な外交だったのやもしれず、本当のところはよく分からないようだ。
が、今日の情勢を理解するには、分からないなりにも古代に遡って考える必要があるそうだが、
関心が薄かったのですが、面白いものです。


英雄たちの選択・天智天皇の白村江での唐とのたた... 投稿者 Suma-2
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その時歴史が動いた 怒れる民よ、信長を討て! 〜浅井長政 逆襲の京都包囲作戦〜 [映像]

(2008日)浅井長政一代記。
1545年に久政の子として生まれるが、六角の風下となっており家中不満だった。
16で六角に反旗を翻し、勝利する。そして父を隠居に追い込んだ。

一方、尾張の信長は、美濃に野心があり、将来の上洛を睨むにせよ、
浅井との同盟は望ましく、妹のお市を嫁がせるに長政は立派な青年だった。

が、信長が朝倉を上洛させて配下にしようと企んだのを朝倉が拒否したのを機に、
徳川と朝倉攻めに入った。

浅井と織田の同盟関係を結ぶ際の約束違反でもあり、
長政は信長を討つことにした。この金ヶ崎の戦が、信長最大のピンチで、
ここで逃がさなければ、歴史は全く違っていた。

その後、当然に戦となる。浅井・朝倉 x 織田・徳川の野戦となる。
この姉川の戦いで敗れた浅井は北近江に籠るが、
地の利と善政で領民に慕われていた浅井はここから反撃をすることができた。

「信長包囲網」を形成していく。延暦寺や石山本願寺を味方につける。
が、信長は「勅命講和」を使って長政と終戦とさせながら延暦寺を焼き討ち。

そして、東で武田信玄が死ぬことで、織田・徳川は朝倉を討つ余裕ができ
ここに浅井長政は完全に包囲されることとなった。

再三の降伏勧告を拒否。
恐らく妻子に生きることを命じ、長政は自害した。


浅井長政・京都包囲作戦・その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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その時歴史が動いた 勝負師は志高く 〜碁聖・本因坊秀策の無敗伝説〜 [映像]

(2006日)江戸末期の碁聖、秀策の一代記。

「御城碁」と言って、毎年、江戸城内で将軍の御前にて大会が催された。
当時、家元は、本因坊家、井上家、安井家、林家の4家があり、熾烈だった。

広島藩で生まれ7歳で藩主に認められ、9歳で本因坊家に修行に入った。
そこで盗み見して上達した。その抜け目のなさで碁聖となった訳ではなく、
日々の掃除などの下働きと、教養を積み重ね、人格を磨いた結果だった。


彼は、御城碁で12年18連続無敗の新記録を達成した後、
ペストが流行り門人の看病をしていて、自分だけが病死してしまう。
そして、幕末の動乱で御城碁は無くなり、
日本の精神性を象徴する1人となる。

碁はよく分かりませんが、彼の境地を垣間見せてくれた有意義な時間でした。


碁聖・本因坊秀策の無敗伝説 / その時歴史が動いた 投稿者 byzantine-basileus-z
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その時歴史が動いた 戦国にかかげた“愛” 〜北の関ヶ原 直江兼続の決断〜 [映像]

(2009日)1560年に生まれ5歳で10歳の上杉景勝の小姓となる。
さすがに優秀で、1578年の謙信の死後の後継者争いで活躍し、
20そこそこの青年がNo2となったようだ。

82年に柴田勝家を総大将とする織田軍団が魚津城を攻め落とした。
3800人の将兵が死亡し、軍神謙信の前に非力を痛感したようだ。

が、6月に「本能寺」となり織田軍団は引くこととなり助かった。

その後、秀吉時代となり、兼続は石田三成と親しくなり、
景勝も五大老の1人となり、越後から会津120万石への栄転となった。
東北の伊達や最上、関東の家康への睨みのための要地だった。

そこで徳川に因縁をつけられ、兼続は正論+「買い言葉」を送り付けた。

が、1600年9月末に「関ヶ原」の負けを知り、翌年に景勝と共に家康に降った。

米沢30万石と4分の1となるも、
内政に勤しみ、領民に慕われ今日まで語り継がれた。

乱世にあって、義を捨てなかった、歴史を面白くさせる方でした。


直江兼続の決断 : 北の関ヶ原 / その時歴史が動いた 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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BS歴史館 徳川家康と関ヶ原の戦い 最後に勝つ男の条件 [映像]

(2012日)「関ヶ原の戦い」の前日の1600年9月14日まで、
誰も関ヶ原が舞台となるとは知らなかったし、1日で終わるとも思っていなかった。

少なくとも20日以上、あるいは数年かけて戦が続くと考えられていて、
黒田官兵衛が九州、伊達政宗が東北に野心を試みた。

1600年春に徳川が会津の上杉景勝攻めとして大阪より5万で出発した。
その後に、西で石田三成が挙兵、5奉行5大老の大半を味方につけて
石田が有利かと思われた。

が、3日前では、石田が愚痴の手紙を送っているなど、
家康のダイレクトメール工作は浸透していた。

9月15日8時に始まるが、家康の凄まじいところが、
内通していた小早川秀秋と毛利吉川に威嚇射撃を実行したことだった。
キレて約束を反故にされたら危険だったが、
この神経は三成では無理で、そこに秀秋も毛利吉川も畏敬に震えたのかもしれません。

戦後の領地配分でも、没収した領地の8割が豊臣系に配分され、
全国的に見ても、徳川系が3分の1を東日本に有し、
東西の住み分けで、中央集権でない地方分権型の支配を実現した。

信長・秀吉と違い、家康型の人間は忍耐でじっくり努力型とイメージしがちだが、
家康自身は、反射神経はずば抜けていた。
今さら「関ヶ原」かと避けてましたが、面白かったですね。


BS歴史館 : 徳川家康と関ヶ原の戦い / 最後に勝つ... 投稿者 byzantinedeslergreatbasileus
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アルチンボルド

「アルチンボルド展」 だまし絵に隠された知的独創性
http://www.sankei.com/life/news/170702/lif1707020031-n1.html

この人は季節に合った植物で絵を作るといった、
常識では考えられないイメージを想像できた。
詳細まで描くことから植物・生物にも詳しくないと描けない。

「司書」も笑え、普通ではない発想だが、精神に異常があるわけでも無いそうだ。
宗教画もあったり、何かを発明したりと、多才のようだ。

性格がいいのか悪いのか気になる人でした。

anharu.jpg
「春」

anhuyiu.jpg
「冬」

anshisyo.jpg
「司書」
https://blogs.yahoo.co.jp/galleryhopping/55543160.html

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英雄たちの選択  無念なり!悲運の大老~井伊直弼・開国への決断~‬‬ [映像]

(2015日)直弼の英断ではなく、実は官僚を止められなかったそうだ。
担当した岩瀬たちは昌平坂学問所で学び通商条約締結は規定路線で、
責任を井伊直弼に押し付けたというのが正しいようである。

英仏よりはハリスが言うようにアメリカと先に結ぶ方が、
国益棄損が最小限で済みそうであり、ヨーロッパとの争いにアメリカが仲介役となってくれることもあり、条約締結はする方がいいが、勅許を得れるかが問題だった。

直弼は、交渉が行き詰まったら調印も可という言質を岩瀬に与えていたとはいえ、
実際に調印されるや「無念」と言った記録があった。

とはいうものの、井伊直政の功で、譜代筆頭となった35万石の彦根藩を14男でありながら藩主となり大老にまで登りつめた彼は、どうせ殺されるならと安政の大獄など派手に演じ、雪の桜田門外が用意されたことにさぞ満足したのでしょうね。


eたち井伊直弼・開国への決断 悲運の大老20150409 投稿者 okura1919ppp
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